木曽古道 ぬくもりの宿 駒の湯

御嶽山・田の原天然公園

木曽のシンボル「霊峰 御嶽」は長野県と岐阜県の県境に位置する標高3067mの複式火山・独立峰で昭和54年(1979年)の噴火はまだ記憶に新しく、古来より富士山と共に信仰の山として知られています、御嶽への登山は歩きやすい田の原からのコースと御嶽ロープウェイからのコースが人気があり夏から秋にかけては沢山の登山者で賑わいます。剣ヶ峰を主峰に南北3.5キロメートルに広がる広大な山頂部が御嶽の大きな特徴です。また御嶽教の水行で知られる清滝をはじめ新滝、不易の滝とこもれびの滝を有する油木美林、昭和59年(1984年)の長野県西部地震によって出来た自然湖など御嶽は自然の美しさに溢れています。

・御嶽の7合目(王滝側)に広がる火山砂の湿原地帯が田の原天然公園です。美しい高山植物が生えた湿地帯に遊歩道が整備され、眼前にそびえる御嶽山頂と足元に広がる自然美を楽しみながら散策できます。ここから御嶽頂上(主峰剣ヶ峰)へは片道約2.5~3時間、山頂からは360℃の大パノラマが登山者を待っています。

・田の原から眺める朝焼けの御嶽山頂です、王滝山頂と剣ヶ峰の山小屋も確認出来るほどに御嶽が迫っています。

御嶽登山は田の原を見下ろしながらの岩場の登り道が続きます、ひたすら続く登山道・・・すれ違う登山者の「こんにちは、頑張ってください」の言葉が疲れを癒してくれます、王滝山頂が近づくにつれ硫黄の臭いが風に運ばれてきます。

・王滝山頂や剣ヶ峰には御嶽教のお宮が点在し信仰の山としての歴史を感じます。

・王滝山頂から見る夜明けの木曽の空・・・満天の星空は次第に白み始め、やがて雲海の向こうに光が溢れ出し静寂の中でただただ太陽をまつ神聖な時が流れます・・・。

・王滝山頂から剣ヶ峰まではあと一息です。

・標高3067メートル主峰剣ヶ峰からは360℃のパノラマ、好天に恵まれれば富士山も確認出来ます、足元からは荒涼とした広大な山頂が広がり、雲海とアルプスの山々、果てしなく続く青空が自然の厳しさと豊かさと雄大さを教えてくれます。

・剣ヶ峰から下ると日本最標高の高山湖である二の池があります、妖しいほど美しく神秘的な瑠璃色の湖面には龍の伝説が伝えられています。

・二の池と摩利支天の間にはサイノ河原が広がっています。

摩利支天からは三の池飛騨山頂継子岳を眼下に望むことが出来ます。

・御嶽の麓に秋の訪れを感じるころ山頂には厳しい木曽の冬の到来を告げる初雪が・・・。

・秋が深まるにつれて色づく紅葉の波は御嶽から木曽谷へと広がり南下していく・・・。

・御嶽の麓王滝村の奥には長野県西部地震によって堰きとめられた自然湖があります、王滝村を震源とする直下型の地震は御嶽の大崩落を引き起こし、伝上川土石流となって王滝川を幅100メートル、深さ200メートルにわたって埋め尽くしました。山中の静けさに包まれた湖面には立ち枯れした木々が映り、鳥たちの鳴き声が聞こえてきます。シーズン中はカヌーツーリングも楽しめます。

木曽馬の里・地蔵峠

かつては「木曽のチベット」と呼ばれた開田高原は明治7年の末川村と西野村の合併によりその歴史が始まりました、一時の分離後明治14年に再合併し現在は蕎麦はもちろん高原野菜や別荘地、リゾート施設などの充実が図られ平成17年(2005年)には「木曽町開田高原」となりました。福島からは国道361号線、旧飛騨街道を通り、新地蔵トンネルを抜けると両側に白樺林の広がり開田高原へと続きます。御嶽の北東に広がるこの豊かな高原地帯は標高1100メートル~1200メートル、比較的降水量も多く緑も豊かですが稲作の限界地にもあたり約200年前に先駆者と言われる中村彦三郎により初めて水田の開発が始まった希望の芽はその後「開田」という名に受け継がれました。年平均気温10℃、夏は平均20℃前後、寒中は零下20℃をこえる日もありますが、西野川、末川、冷川の清らかな流れと爽やかな風吹く高原地帯は春から夏にかけては水芭蕉・桜・こぶし・忘れな草・蕎麦の花などに彩られ、秋には紅葉、そして冬の厳しさの中の御嶽をはじめとした自然の美しさは人々とっては温かい贈りものです。

■木曽馬の里

御嶽を目の前に約50ヘクタールの広さを誇るこの木曽馬の里は、現在では数少ない木曽馬が大切に育てられ、開田特有の優しい自然の中で人と馬が触れ合う機会を与えてくれます。木曽馬の里では引き馬による乗馬体験や蕎麦打ち体験ができ、 夏にはブルーベリー狩りが楽しめ、真っ白な蕎麦の花の絨毯に覆われます。
※木曽馬とは・・・
鹿児島県のトカラ馬、宮崎県の御崎馬、長崎県の対州馬、愛媛県の野間馬、北海道のドサンコとともに、日本在来種として知られています。その歴史は1500年前に遡り、戦国時代には武将の乗馬として、最盛期の明治には7000頭もの木曽馬が開田村の人々と生活を共にしてきました。平均体高は130センチ、咀嚼力の優れた顎を持つ丸い顔とつぶらな瞳、そしてずんぐりとした体が表すように温厚で人懐っこい性格です。強い肢と蹄は農作業に適しており、村人からは宝のように大切に育てられていましたが太平洋戦争時に軍用馬として不適とされた木曽馬は絶滅の危機に瀕することになりますが、村人の厚い愛情に助けられ、昭和44年に木曽馬保存会が設立され現在に至っています。

・標高1335メートルの地蔵峠、飛騨街道を福島から開田へ抜けてくるかつての旧道は御嶽を眺める地蔵峠展望台として人気のスポットです。

※冬季は通行止め

・夏の木曽馬の里の風物詩蕎麦の花、白くかわいらしい小さな花が草原に彩りを添えます。

・真っ白な蕎麦の花の絨毯が広がるころにはオミナエシコスモスも鮮やかに咲きます。

・開田の夏の楽しみの一つブルーベリー狩り、たくさん実った甘酸っぱい実には開田の美味しさが詰まっています。

・美しい幹の白樺の大地

・木曽馬の里のシンボルこならの木

・散策途中で足元に目をやれば瑞々しい大地は生命力に溢れて、
命の繋がりを教えてくれます。

・開田高原の入り口には水生植物園があり水芭蕉忘れな草など季節の花を楽しむことが出来、小休止の場所として親しまれています。

・その昔、不注意で起こった尾張藩の留山の火事の責任を一人で背負った平次郎の悲しくも優しい話を今に伝える平次郎地蔵

・清流冷川と水量豊富な尾の島の滝は名前のごとくひとときの涼を与えてくれます。

九蔵峠木曽馬の里から眺めるそれぞれの御嶽

・秋・・・ブルーベリーの葉が赤く色づき、すすきが風に揺れ、御嶽から木曽谷へと次第に紅葉が広がっていきます。カラマツが真っ青な秋空に映える頃に御嶽には初雪が・・・。

・木曽馬を家族のように大切に育てた開田村、西野地区には江戸中期から大正中期まで大馬主、時には名馬医として木曽馬と盛衰を共にした山下家。徳川幕政期の慶応元年に建てた優美な建物が県宝 山下家住宅として大切に保存され展示されています。

開田村考古博物館も併設され柳又遺跡をもとに旧石器時代から縄文時代の開田の生活を垣間見ることが出来ます。

唐沢の滝(木曽福島町)

福島から開田高原に通じる国道361号線から黒川沿いに地蔵峠に向かって旧道に入ると、かつては飛騨街道の名勝として知られた唐沢の滝があります。高さは135メートル、四段の滝でしたが道路の改修により、現在は滝の高さは約100メートルとなっています。 ※冬期は唐沢の滝までは行けますがそれ以降地蔵峠から開田高原へは通行止めとなります。

・道路脇の駐車場に車を停めれば、その場からもはっきりと見ることが出来る雄大な姿。

・桧の芳香に包まれて小径を抜けていくと次第に滝の音が近づいてきます。

・滝壺から眺める唐沢の滝、豊富な水は「水の郷」と呼ばれる木曽の象徴です。

・近寄ることが出来ないほどの水しぶき・・・。

・秋、水量の控え目になった唐沢の滝は夏とは趣きを異なる繊細な姿で見るものを楽しませてくれます。

・晴れ渡る青空と赤みを帯び始めた木々に白糸の滝が映えます。

不易の滝・こもれびの滝(油木美林・三岳)

霊峰御嶽の裾野に広がる油木美林は樹齢300年を超えるヒノキ・サワラ・ネズコ・アスナロ・コウヤマキなどの木々が生い茂る厚生林です。森林浴やバードウォッチングが楽しめる整備された遊歩道が7合目まで続き、木々の間を歩けばそこには神秘的な美しさのこもれびの滝・不易の滝・百間滝が遥か昔からその水音を響かせています。

・駐車場に車を停めて沢伝いに歩いていくと最初の滝がこもれびの滝です、生い茂った木々の合間から差し込む光が豊富な水を照らし、生命の源である青白く澄んだ流れは麓へ流れていきます。

・遊歩道や滝の周辺には瑞々しい山肌から湧き出る小さな沢や森の守り神のような巨木など御嶽の麓に広がる豊かな自然の力を感じることが出来ます。

・こもれびの滝から少し歩けば永遠にその姿を変えないという意味を持つ不易の滝です、近づくにつれて控えめに落ちる水の音が心地よく耳に響いてきます。木々の合間に突然広がる空間、大きな岩壁の上からさらさらと幾重もの糸をひくように落ちる繊細な姿に魅了されます。ここから百間滝までは約2時間・・・。

・冬にはまた違った姿を見せてくれる2つの滝・・・。

清滝・新滝(王滝村)

王滝村から御嶽へ向かう途中、3合目にあるのが清滝・新滝です。どちらの滝も御嶽教の信者の水行で有名です。水量が豊富で高さもあり、春から秋には新緑と紅葉に包まれ、冬には神秘的な氷の芸術をみせてくれます。

清滝は道路脇の駐車場からすぐに姿を確認することができ、どちらかといえば新滝よりも清滝の方が御嶽教の雰囲気を強く感じます、この2つの滝以外にも御嶽教の皆さんが水行をする滝が山麓には点在しています。

・清滝から車で少し上がれば新滝です(清滝の上から徒歩で行くことも可能)。濡れた滝壺は苔生して独特の表情を醸し出しています。

・冬・・御嶽の凍て付く寒さによって冬の芸術が生まれます。

水木沢天然林(木祖村)

「郷土の森」として遊歩道が整備されたこの天然林は広さ82ヘクタール、原生林の姿を今も残し、針・広葉樹が混生する貴重な天然林です。ここに生きる木々のほとんどが樹齢200年を越え、中には樹齢550年の大サワラもあります。「太古の森・1,2キロメートル」と「原始の森・1キロメートル」の2つのコースがあり、距離は短めですがどちらも起伏に富んだ歩き甲斐のあるコースです。

・青空の下に広がる緑の森

・新緑の季節・・・あたたかい太陽の光を浴びてすくすくと育つ生命

・木立の合間を縫いながらすすむ遊歩道、上松の赤沢自然休養林とはまた少し違った森の姿を楽しめます。

・頭上を見上げれば木々や枝の向こうに青空が広がり、優しい木漏れ日が大地を暖めています。

・豊かな森から流れる清らかな水流・・・。

・樹齢550年の大サワラをはじめ、水木沢は野生の魅力に溢れています。

権現滝(福島)

木曽福島駅に降り立ち、北方を眺めると木曽川の向こうに見えるのが城山です。興禅寺を通り過ぎ、木曽福島郷土館の上から城山自然遊歩道に入り(行人橋付近にも入り口あり)、木曽の山々や福島の町を見下ろしながら歩いて行くこと約20分、権現滝がその姿を現します。その名はかつて木曽義仲が平家討伐の挙兵の際に、御嶽大権現の出現を願い沐浴祈願したことに由来します。※普段は水量も少なく森の中に静かにその水音を響かせていますが、雨が降り続けば、雄大な滝へと姿を変えます。

・緑に囲まれた山中にひっそりと流れる権現滝。

・大雨が降った後には普段の姿からは一変し荒々しい表情を見せてくれます、水量は増えた時には国道からもその姿を確認できます。

赤沢自然休養林(上松町)

上松町より木曽川の支流、小川の流れを眺めながら約13キロ「森林浴」発祥の地、日本三大美林として知られる赤沢自然休養林が広がっています。平均樹齢250年を越えるヒノキの森に足を踏み入れると、木々の芳香と清流のせせらぎ、小鳥たちのハーモニーが身体を優しく包み込みます。
7つの遊歩道が楽しめ、春から秋にかけてはかつての森林鉄道も運行されています。

・美しい小川の流れ

・森林散策同様に人気の森林鉄道は大正4年(1915年)に敷設が始まり最盛期には木曽谷に57線・総延長428キロにもおよび木曽の林業を支えました。手押しのトロッコ→蒸気機関車→ディーゼル機関車へと時代に対応しながらも昭和50年(1975年)に前線廃止となりました。その後昭和62年(1987年)に赤沢の森林保護の気運とともに後世に残す赤沢の遺産として森林鉄道が復活して現在に至っています。

・2.2キロのコースをゆっくりと往復する小さな旅は心地良い振動と懐かしい汽笛の音で当時へとタイムスリップ。

・客車から眺める森と清流、頬を撫でる新鮮な空気を思い切り楽しんでください。

・列車は丸山渡で一旦停車したあと再び発着点に戻ります。

・紅葉シーズンが終われば、1年の務めを終えた現役の列車たちは森林鉄道を支える人々によって丁寧に整備され格納庫へ、年が明けて雪が解けて木曽谷が新緑に覆われる頃を静かに待ちます。

向山コースには比較的若いヒノキの育っていて木っ端の敷き詰められた道は柔らかくて身体に優しい。

平沢橋(向山コース)から眺める中立沢の流れ

・ヒノキの森の自生の様子が観察出来る中立コース、地面を這うヒノキの根は大地に水分を蓄えて生命を支え、大雨にも負けない強い森を作ります。

・赤沢自然休養林では20年に一度、伊勢神宮の遷宮用材を切り出すための御杣始祭(ミソマハジメサイ)が行われます。駒鳥コースでは見応えあるヒノキの大樹御神木伐採跡地を見ることが出来ます。

冷沢コースにはこの森で最も成長の良いヒノキを見ることが出来ます。

・車椅子でも森林浴が楽しめるように整備されたふれあいの道からは走る列車床堰を楽しみながら丸山渡までの散策が楽しめます。

阿寺渓谷(大桑村)

阿寺渓谷は国道19号から木曽川を渡り、支流阿寺川の美しい渓谷や千畳岩の絶壁を眺めながら終点のキャンプ場まで林道が続いています。明治の時代に島木赤彦と伊藤左千夫が阿寺鉱泉で共に過ごし数々の名歌を残したことでも有名です。阿寺鉱泉はすでに無くなっていますが、犬帰りの淵・樽ヶ滝・六段の滝や吉報の滝などの渓谷美は今も変わらず、ヒノキ林の芳香に夏の涼しさ、秋の紅葉の美しさが遥か昔から訪れる人々の心を楽しませ疲れた身体もエメラルドに輝く水の美しさで癒してきました。

「山深くわけ入るままに谷川の 水きはまりて家一つあり」

明治40年に島木赤彦が伊藤左千夫と共にこの地を訪れた時に詠んだ歌です。
目の前を流れる渓谷の水の美しさを眺めていると当時の歌人の心が伝わってくるようです。

・差し込む太陽の光に輝く深く澄んだエメラルドグリーンの水

・阿寺川に注ぐ樽ヶ沢の流れ。

・小ぶりながら華麗な姿を見せる六段の滝

・奥深い森から足元へと流れ落ちる吉報の滝

柿其渓谷(南木曽町)

柿其渓谷のある柿其本谷川は江戸時代は留山となっており、里の人々は入山も禁止され、滝の音さえ聞くことはありませんでした。昭和44年に長野県で指定された信濃路自然遊歩道はこの渓谷から小路(恋路)峠を越えて阿寺に通じており、現在は車でも行くことが出来ます。林道を歩いていくと傍らには柿其川が流れ、花崗岩のつくり出す、滝と淵が上流8キロほど続いています。本流のため水量も多いその滝はスケールも大きく、いつ訪れてもその神秘的な美しさは変わらず、春にはツツジ・シャクナゲ、秋には紅葉など四季折々の彩りが旅人の心を癒します。 ※上流へ向かう林道は途中より車の立ち入りが禁止されています、また熊の出没の可能性もあり「熊除けの鈴」などを用意して十分注意して行きましょう。

・駐車場から歩き始めてすぐに秘境 柿其と刻まれた石碑が立ち、木立を抜ければすぐに渓谷に出ることが出来ます。吊り橋の向こうには杣の家が建ち左手に清流を眺めながら遊歩道を歩いていきます。

・少し遡ると浅瀬が終わり、切り立った岩とその上の木々が両側から覆い被さるようにして川幅が狭くそして深くなり透明だった流れは深みのある緑色へと変化します。

・木組みの階段をしばらく登って行くと牛ヶ滝に辿り付きます、かつては留山であったこの場所は一番近くのこの牛ヶ滝でさえ見ることは出来ず、岩の隙間から勢い良く流れ落ちる豊富な水の音だけが幻の滝の存在を証明していました。

・牛ヶ滝へ向かう道を下らずに林道にそって柿其上流を目指します、途中にはゲートがあり車では進入出来ませんので下の駐車場に車を停め、十分な時間と装備を用意して行きましょう。未舗装の道をしばらく歩くと最初の霧ヶ滝に到着です。道のすぐ脇には展望台が設けられていて大きな音をたてて流れ落ちる滝と山のように大きな岩の下に広がる深緑を一望出来ます。

・霧ヶ滝から少し歩くと道路からすぐ下に虹ヶ滝が湧き水のようにさらさらと心地良い音を響かせています、水量はさほど多くはありませんが条件がそろえばその名の通り滝の下に虹を見ることが出来ます。

・さらに道は奥へと続いていきます、川の流れは道から随分下になりますが俯瞰するようにまわりの木々や年輪のように刻まれた岩肌と合わせて眺めていると遥か昔から続く水の流れの尊さに心を奪われます。

・道路脇に流れる森からの湧き水が疲れた身体にひとときの安らぎを与えてくれます。

かもしか帰り
と呼ばれる岩壁。

かつての森林鉄道は朽ち果て新しい生命が生まれ・・・やがて森に還ります。

雷の滝は落差はそれほどありませんが岩壁に阻まれ行き場をなくした川の流れが「Z」状にまるで夜空に光る稲光のごとく流れることからその名がついたのでしょうか?当時の人々の想像力に感心させられます。

田立の滝(南木曽町)

落差約40メートルの大瀑布、「天河滝」を代表する「うるう滝」「らせん滝」「洗心滝」「霧ヶ滝」「不動滝」などの無数の滝の総称を田立の滝といいます。昭和2年に日本百景に選ばれ、県立公園にも指定されて大切に保護されています。今では気軽に楽しめるハイキングコースとして自由に出入り出来ますが、明治の中頃までは限られた人しか入ることは許されませんでした。その昔尾張藩が山を伐り出した年に村は大雨にあい、それを山霊のたたりと恐れた村人は、以降村の代表のみが雨乞いのためだけに立ち入ることが許された神聖な場所としました。時が経ち、明治20年頃篤学の人として知られる宮川勝次郎が滝見物に一人出かけました、その後滝の美しさに魅せられた宮川は迷信を破り、村人の反対にあいながらも、この滝の美しさを世に知らしめるために秘かに登山道を切り開きました。この宮川の情熱が村人の心に響き、村をあげての開発がはじまりました。保存会の生まれる前年に宮川はこの世を去りましたが、その魂は今も美しい滝の流れと共に生き続けています。
※うるう滝以外の滝までは一番下のらせん滝でも約50分ほどかかります、十分な時間の余裕と水や食べ物も用意していけば途中で困ることもないと思います、夕方登る場合は懐中電灯も持っていきましょう。また道中には足場の悪いところもいくつかありますので登山靴やトレッキングシューズで登ることをおすすめします。

・田立の滝キャンプ場から林道へ少し入ったところにうるう滝があります、ここまでは車で入る事が出来ます。

・田立の滝登山道からいよいよ大滝川上流に向かって登り始めます、静かな山道に時折聞こえてくる清流の音で運ぶ足もリズミカルに・・・。

・つづら折りの山道を歩くこと約50分らせん滝の案内板のところに到着です、ここからわき道にはずれて急な下り坂をおりていくと、大きな岩盤の隙間を縫うように勢い良く流れ落ちる二つ折れのらせん滝です、滝壷のエメラルドグリーンの淵も魅力的です。

・眼下に洗心滝を眺めながら更に道は続きます。

・歩き始めて約1時間霧ヶ滝に到着しました、見上げるほど大きな岩場から階段状の岩を清流が滑らかに糸をひくように流れ落ちてきます。

・霧ヶ滝の一段上が主瀑天河滝になります、道中で一番の登り坂を一気に登り切れば目の前には大きな一枚の岩壁からダイナミックに流れ落ちる田立の滝一番の滝が待っています。滝壺に舞い上がる冷たい水しぶきが身体の疲れを忘れさせてくれます。

・せり出した大きな岩の上の流れ落ちるのが不動滝です、間近には吊り橋がかかり切り立った岩場にへばりつくように組み上げられた階段は渓谷の風情を満喫させてくれます。

・不動滝までの急な登りを終えると道は穏やかな道のりにかわり、何層にも積み重ねられたような岩盤の上をさらさらと水が流れます、吊り橋の下には鶴が翼を広げたような鶴翼(かくよく)の滝とエメラルドグリーンの淵が広がります。

・清流の流れを楽しみながら歩いていくと綺麗な緑色に苔むした川底を見つけました、すぐ近くには箱淵と呼ばれる縦に切り込まれた天然の水路に清らかな水が流れ落ちています。

・沢のように静かな流れの中に現れるそうめん滝は女性のような優しい滝。

・いよいよ上流の丸淵まで来ました、ここから先は不動岩展望台へ通じる熊笹の生い茂った山道へと道が続いていきます。天河滝や不動滝までの荒々しい表情からそうめん滝や丸淵などの優しい表情まで渓谷の様々は風景や起伏に富んだトレッキングコースは一日をかけてゆっくりと楽しみたい渓谷美です。

・熊笹を掻き分けて歩いていくと登山道は昔の林道と合流し大滝川源流の湿地帯である天然公園不動岩展望台へ続く道へと左右に分かれます。不動岩からはそこまで汗して登った人だけが見ることの出来る景色が広がります。

贄川宿

贄川宿は木曽路の北の入り口にあたる谷間の長閑な宿場町です。南の妻籠宿と共に木曽路の重要な拠点でした。贄川の名は古くは温泉を表す「熱川」と書かれていましたが温泉が枯れてから麻衣廼神社の親社である諏訪神社の神事の御贄にこの地で捕らえた鮭や鱒を供進したことに由来するそうです。街道の面影をわずかに残す町には復元された「贄川関所」があり、国道19号沿いの山裾には樹齢1000年、県の天然記念物であるトチの大木が空に向かって枝を広げています。

おもしろばなし

■桜沢の有料道路

江戸から来て本山宿を過ぎれば木曽路の北の入口桜沢、ここに「是より南 木曽路」の碑があります。ここから桜沢集落へは断崖絶壁が続き、中山道は現在よりも高いところを通っていましたので、江戸時代には近くの村民が岸壁を削り、道を作り通行料を取っていたそうで、おそらく長野県で初めての有料道路ではないでしょうか。

町内観光スポット

この関所は豊臣秀吉の時代には主に木曽木材を監視、調べるのが仕事で「白木番所」と呼ばれ、関ヶ原の戦い以後は福島関所とともに「出女」も取り締まりました。昭和52年に村誌の古閑図など諸資料を元に現在の場所に復元され、下の階には木曽考古館を併設し「簗場遺跡」など贄川地内の遺跡から発掘された縄文初期から中期時代の土器や石器と平安時代の遺物が展示されています。

観音寺は木曽路の中では珍しい真言宗のお寺で寛政3年に建立、現在では村の有形文化財のひとつとなっております。

観音寺のすぐ上にあるのが「あさぎぬ」という木曽の枕詞を名前にしている麻衣廼神社。諏訪大社の系列で7年目ごとに御柱祭を行うために境内には4本の柱が立てられおり、毎年5月には祭礼として贄川祭りが行われ賑わいます。

観音寺から200メートルほど離れた平沢よりの山裾にある、一際大きな大木が「贄川のトチ」です。推定樹齢1000年を越え木曽路の人と歴史を静かに見守ってきました。

奈良井宿

奈良井宿の始まりは鎌倉時代に遡ります。鳥居峠の麓にありその標高は940メートル、木曽路でもっとも高い所に位置します。中山道一の難所である「鳥居峠」と伊那へ抜ける「権兵衛峠」の近くにあるため峠越えに備えて一夜を過ごす旅人も多く、かつては「奈良井千軒」と呼ばれるほどに栄えた宿場は、明治の道路改修の際に国道から外されたおかげで今もなお当時の風情を偲ばせ、国の重要伝統的建造物保存地区に選定された現在は、町の皆さんが協力しあい日頃から保存に努めています。

おもしろばなし

奈良井では、うるし塗りの美しい蒔絵を施した蒔絵櫛を作っていました。ご降家の姫君たちがここに宿を取ったのは、この「蒔絵櫛」を求めるためだったとか・・・

■鳥居峠

鳥居峠は海抜1197メートル。木曽川と信濃川の上流である奈良井川の分水嶺をなしており、かつてはこんな歌も詠まれました。
「伊勢に送ろか 越後へやろか 鳥居峠の立小便」

町内観光スポット

鳥居峠から下り奈良井宿の入り口にあるのが往時の宿場町の人々の生活を偲ばせる民俗資料や歴史的遺産が時代と共に失われず後世に伝えられるようにと昭和48年に建てられた民俗資料館です。1階と2階の各階には当時の人々の生活を連想させる生活用具、祭礼具、古文書などが数多く展示されています。

民俗資料館のすぐ隣にあるのが鎮神社です、元和四年(1618年)奈良井宿に「すくみ」という疫病がはやり、これを鎮めるために千葉県(下総国)より経津主居命(フツヌシノミコト)を招き祭祀が始められたとされ、毎年8月には盛大な例祭が行われます。奈良井宿の鎮守とされ元は鳥居峠にあったものが合戦による焼失の後、現在の場所に移され伊勢湾台風の被害にあいながらも江戸初期の様式を今も残しています。

奈良井の指定有形文化財として公開されている中村邸は商屋と櫛問屋を営んだ中村利兵衛の屋敷です。天保8年の大火の後に立てられたこの家は当時の代表的な屋敷の姿を今に伝えています。表は猿頭をあしらった出梁造りと千本格子と三枚蔀、狭い間口から潜り戸を抜けていくと細い土間が奥の庭まで続き勝手、中ノ間、座敷があり煤で真っ黒に染まった柱に積み重ねられた時を感じることが出来ます。

奈良井の町並みの中程にあり、表には「明治天皇行在所」の碑が建つのが代々問屋(といや)を勤めた手塚家です。江戸時代に幕府の役人や諸大名をはじめ、一般の旅人のために伝馬(宿継ぎ馬)と歩行役(人足)を管理するのが問屋の務めでした。270年の長きにわたり問屋を務めた中で残された江戸時代の漆器や塗り櫛、宿絵図、問屋屏風などの珍しいものや日常生活に利用された諸道具が広い母屋に展示されています。

町並みから少し奥まったところに臨済宗妙心寺派の大宝寺があります。天正10年(1582年)に木曽氏の氏族である義高公が開山大安和尚のために建てた広伝寺が始まりでその後江戸時代の明暦年中に玉州禅師により中興されて大宝寺となりました。この庭には首の無いお地蔵がマリア地蔵があります、昭和7年に近くの薮から発見されたものです。子育て地蔵に似せて作った秘かな信仰が役人に発覚して地蔵の頭はおろか子供や膝まで壊されてしまっていますがよく見ると抱かれた子供が持つ蓮の花がまるで十字架のようで、木曽谷に住んでいた隠れキリシタンの歴史を物語っています。

奈良井宿の北端にあるのが八幡神社。古くは奈良井の木曽義高の館の鬼門除けとして崇敬されていました。旧中山道の杉並木を過ぎると小さなお地蔵様が並んだ開けた場所に辿りつきます、これが二百地蔵です、実際には130体ほどで地蔵よりも観音が多く、鉄道建設の際に神社南に散在していたものを集めたもので、風雪にたえたその顔はいつも穏やかに旅人を迎えてくれます。

平成3年3月に完成した「木曽の大橋」は山口県山口村錦川に架かる「錦帯橋」をモデルにしており、木曽郡にある樹齢300年前後の木曽ヒノキの大径木を集め、1年と4ヶ月をかけて作られた奈良井の新しい名所です。

薮原宿

お六櫛で有名なここ薮原宿も奈良井宿と同様に江戸時代には鳥居峠だけでなく、境峠・野麦峠を経て飛騨高山とを結ぶ要所として往時は旅人で賑わいました。木材に恵まれたこの地では、今でも木工製品が豊富でお六櫛をはじめ画材なども作られ、当時の面影を僅かに残す町並みを歩けば風にたなびくお六櫛の暖簾を見かけます。また薮原を含む木祖村は遥か227キロを経て伊勢湾に注ぎ濃尾平野まで潤す木曽川の源流味噌川を有している源流の里としても知られ、緑の台地を川が流れ、大きな畑が広がり、自然豊かな景色が広がっています。

町内観光スポット

お六櫛はもとは妻籠宿の名産であり、江戸初期までは薮原でも奈良井・平沢同様に漆器産業が主体でした。しかしお六櫛の材料としてもっとも適したミネバリ(斧折れ樺)が妻籠に少なくなり、鳥居峠より運ぶようになると、薮原の人々もなんとかこのお六櫛の製作技術を習得したいと考え、様々な手段で妻籠よりその技術を取り入れ、中山道を旅する人々によりお六櫛の評判が広まり、いつしか薮原の名産となりました。
その名の由来は、妻籠にいた「お六」という女性がひどい頭痛に悩まされ、御嶽神社で願をかけてみると「ミネバリの木で櫛をつくり、朝夕髪をとけば治るだろう」というお告げを聞き、そのとおりにすると治ってしまったという話が残っています。
今では機械挽きと手挽きの両方がありますが、櫛目には随分違いがあります。本来のお六櫛の歯の幅は約0.5ミリ。これは機械では不可能で、今でもそのひとつひとつが職人による手作りである。また0.5ミリ幅という緻密な作業に耐えうるには重くて目の詰んだミネバリが最も適している。お六櫛の細かい目は静電気をおこさず、髪と地肌の汚れを落とし皮脂を均等に広げるので髪に優しいと言われています。

木曽川源流の味噌川に平成八年に完成したのがこの味噌川ダム。高さ140メートルのロックフィルダムで多目的ダムとしては日本最高の標高1130メートルに位置し、計画総貯水量は諏訪湖とほぼ同量。ダムから少し上がったところには柳沢尾根公園、湖畔には正沢親水公園があり木祖村を見下ろす風景や静かな湖畔の散策におすすめです。

薮原の町並みから一段高い森の中に薮原神社と極楽寺が隣り合うようにあります。薮原神社の創始は天武天皇9年(681年)と伝えられ大変古く薮原の産土(うぶすな)神がまつられ、境内には八品社という末社があり木櫛造りの職人から信仰を集めていたそうです。

極楽寺は臨済宗京都妙心寺派でかつてはアララギ派の歌人が訪れた古刹です。

古くは藪原峠、奈良井峠と呼ばれていましたが、鳥居峠と呼ばれるようになったのは、戦国の世、木曽義元が松本の小笠原氏との戦に備え、峠より御嶽を遥拝、戦勝祈願したところ、見事勝利を収めて、峠に鳥居を建てたことから鳥居峠と呼ばれるようになったと言われています。この峠はその昔、旅人にとっては中山道の難所のひとつであり、木曽氏にとっては戦略上の重要な防衛拠点でした。木曽義昌と武田勝頼の軍との合戦はよく知られており、3回にわたる合戦は、当時「向かうところ敵無し」といわれた武田勢をいずれも木曽氏が敗り、その実力のほどがうかがい知れ、峠の頂上付近にある丸山公園には「鳥居峠古戦場碑」が建てられています。峠は海抜1197メートル、木曽川と信濃川の上流の分水嶺にあたり藪原駅より3キロ、奈良井駅より3.3キロ。現在は信濃路遊歩道として整備された道を旧中山道や旧国道を通るハイキングコースとして緑豊かな自然と歴史に触れながら石畳や森の中の道を歩くことが出来ます。

山頂の奈良井側には栃の大木の林があり、その中に幹に大きな穴のあいた「子産みの栃」と呼ばれる巨木があり、その昔、子供を欲しがっていた夫婦がこの穴に捨てられていた子を見つけ大事に育て、その子は幸せになったという伝説が残っており、この栃の実を煎じて飲めば子に恵まれると言われています。

頂上にある鳥居をくぐったその奥に、古くからの御嶽遥拝所があります。このまわりには霊神碑や神像などの御嶽信仰に関する石碑や馬頭観音などがあり、神聖な空気を感じます。またそのすぐ下にはかつての森林測候所跡が公園となり、その昔木曽義仲が平家討伐の途中、鳥居峠にて戦勝祈願の願書を認めた際の硯の水伝説の場所や、薮原・奈良井の愛好家によって建てられた芭蕉碑など数基が往時の趣を感じさせます。

宮ノ越宿・日義村

朝日将軍「木曽義仲」ゆかりの地として知られる宮ノ越は原野や宮ノ越付近に宿場町当時の名残を感じます。木曽大工の出身地としても知られるこの町並み、ひとつひとつの家々を見て気付くのは二階を支える「持ち送り」などの民家建築の美しさを今も伝えていることです。また平坦な土地に恵まれたため、木曽路では珍しく用水も完備し、屋敷割と伝馬割の水田が模式的に配置された貴重な宿場遺産です。

おもしろばなし

山吹山の麓を「山吹横手」と呼びます。その名のとおり春になると木曽川沿いに山吹の花を一面に咲かせ新緑の季節の訪れを告げます、この山吹の花は実をつけるとの言い伝えがあり、この枝で作った箸を使うと子宝に恵まれるといわれ、姫君たちは箸を求めたということです。

国道19号を走りながら原野の町並みの方に視線を向けると山の中腹の大きな岩に目がとまります。この岩を明星岩と言います。その昔、大きなカジカが住んでいて、ある時そのカジカが駒ケ岳濃ヶ池に棲んでいた大蛇をケンカで負かし、木曽川を下って伊勢の海まで追いやったという伝説があります。原野の駅の裏手から徒歩で約20分ほど、畦道を通り木曽川を越えて細い山道を登れば正面に駒ケ岳を望み木曽駒高原と日義村を一望出来ます。岩の上に登ることは出来ますが足場があまり良くありませんからご注意ください。

町内観光スポット

宿場の対岸、山の麓にあるのが木曽義仲の菩提寺である「徳音寺」です。入口付近には安永5年と銘の入った「木曽殿菩提所徳音寺」の石標が建ち、鐘桜門をくぐると庫裏と本堂があり左手奥には義仲の木像を納めたお堂、そして境内の奥には義仲のお墓と寄り添うように巴御前の墓碑が建っています。

徳音寺の手前にある武家屋敷風の建物は平成4年に開館した「義仲館」です。館内には日義村出身の画家が描いた義仲の一生を表した6枚の絵画、古文書の写しや絵図、生活用具や木曽氏20代にわたる資料が展示してあります。

山吹山の真下にある木曽川のS字状の深淵が巴ヶ淵である。義仲の愛妾巴御前に由来、この淵に棲む竜神が巴御前の化身となり生涯、義仲の寄り添ったという伝説が残っています。

義仲が幼少の頃に養父中原兼遠と共に京に上り岩清水八幡宮を勧請し、この地に祀ったのがその始まりとされ、その後以仁王の命により平家追討の旗挙げを行ったことからこの名がつけられています。社殿の隣には樹齢1000年近い大きなケヤキの木があります。

国道19号の脇の木々に隠れてひっそりと佇む南宮神社は古代、村の鎮守として南西約1キロの「古宮平」というところにあり、宮ノ越の地名はこの宮の越(中腹)を意味するものだと言われています。後の義仲築城の際に現在の場所に移され、美濃国の一の宮、南宮大社の金山彦命を観請したものでこれは幼き駒王丸と養父中原兼遠が京に登った際に密かに源氏信仰の本拠である大社から請い受けたことによります。義仲の戦勝祈願の神社として、また養蚕の神、安産の神としても崇められていました。

幼くして父を討たれた駒王丸(義仲)の養育者であった中原兼遠の菩提寺がこの林昌寺です。義仲を育て、挙兵したあとに兼遠は「円光」と号して仏門に入り、この寺を建立したといわれています。

福島宿、木曽福島町

木曽町福島は中山道の宿場町の中で江戸へ六十八里、京の都へ六十七里という中間地点の宿場町であり、江戸時代に四大関所の一つ「福島関所」も置かれ木曽路の中心として栄えました。当時の町並みは昭和の初めの大火によりその面影はわずかですが上の段地区には敵の進入を防ぐための鍵の手と復元された高札場や水場が残り、福島関所や山村代官屋敷などの史跡を巡りながら町を歩けば往時の趣きを思わせるものに出会うことができ、四季折々の彩りと澄んだ水、空気がいつでも旅人を優しく迎えてくれます。駅前から西方を眺めるとそこには樹齢200~300年のヒノキ・サワラ・モミなどの針葉樹や、新緑・紅葉の季節には鮮やかな彩りをみせる広葉樹の大木が茂る城山国有林が迫っています。そうまさに木曽路はすべて山の中なのです。

おもしろばなし

木曽福島は全国の「水の郷百選」に選ばれています。水を守り、水を活かした地域・環境づくりを推進するためにその土地固有の水をめぐる歴史を大切に守り、まちづくりに優れた成果をあげている地域を国土庁が「水の郷百選」として認定したものです。緑と水資源豊かな木曽福島はひのきをイカダにして流した頃の中乗りさんを復活させたことが選定の理由だそうです。

古い歴史と伝統をもった木曽おどり、その名前が最初に記録に現れるのは今から約400年前の室町時代の終わり、このころすでに京都で木曽おどりが盆踊りとして流行していた記録が残っており、当時から木曽谷は民謡の宝庫として都でも名が通っていました。当時木曽おどりと呼ばれたのは各村々で歌われていた様々な民謡の総称であり、中山道の要所として往来のあった福島宿から木曽路の旅人や諸国から来た沢山の山林労働者によって各地に伝えられていきました。その中でも格調高いものとして「木曽の中乗りさん」で知られるものが現在の木曽踊り「正調木曽節」です。

■中乗りさんて何?

中乗さんには主に3つの説があります。ひとつは木材を川に流して運んだ頃のイカダ流しの乗り手のこと。もうひとつは、御嶽の行者の中で神の声を伝えるほどに修行を積んだ人=中座のこと。そして最後の一説が馬の鞍説です。当時の木曽はヒノキを代表とする木材を木曽川の流れを利用して運搬しました。急流の中を木材に傷を付けずに運ぶ中乗りさんは手当もよく、その粋な姿は女性達の憧れでもありました。

■ナンチャラホイって何?

とても不思議な響きの言葉です。これは、お経の中の言葉に「ナンチャラホーエ」というものがあり、そこからきたとか・・・。あるいは神の山、御嶽の神々しい姿を見て「なんとまぁ」と感嘆の声をあげたからではないかとも言われています。御嶽は王者の山という意味と伝えられており、「御嶽山」と下に「山」をつけて呼ばれていますが、本来は「御嶽」であり、もとは「御嶽さま」「御嶽さん」と敬って言ったのが「山」となったと言われています。

■大名が避けた福島宿

大名が本陣に泊まると福島の代官・山村氏は裃(カミシモ)をつけて挨拶に伺うのが通例でしたが、尾張藩の一代官といえど、家康直々に関守を仰せつかった直参でもあった山村氏に挨拶を受けるのは幕府の大名でも気苦労が多かったのか、1746年から10年間に宿を取った大名は福島49件・上松103件・薮原130件と福島は随分少なく、中には0件の年もあったそうです。

町内観光スポット

当時は木曽川の断崖の上にあり背後と対岸まで山の迫ったこの場所は交通の要衝に最も適した場所と考えられ、箱根・新居・碓井、と合わせてこの福島が「四大関所」と呼ばれ「出女に入鉄砲」と言った女子と鉄砲の出入りを厳しく取り締まりました。関所跡は昭和50年の発掘調査の後に国の史跡に指定され現在は資料館も建ち当時の門・柵などが復元されています。
<開館時間>
 4~11月 午前8:00~午後5:30まで
 12~3月 午前8:30~午後4:30まで
 ※12月~3月の毎週火曜日休館
 ※12/29~1/3休館
<料金>
 大人(高校生以上) 300円
 小人(小中学生)  150円

その昔、この周辺にはお関所番の役宅が建ち並び、高瀬家もその一つでした。高瀬家は「島崎藤村」の姉、園が嫁いだ家であり、小説「家」のモデルとなりました。昭和二年の大火の被害を受けつつも土蔵や庭園などの昔の風情を残し、島崎藤村の資料も展示してあります。
<開館時間>
 午前8:30~午後5:00まで
<料金>
 大人200円・小中学生100円

福島には西方寺、大通寺、久昌院、長福寺、興禅寺がありその中でも木曽三代名刹のひとつの興禅寺は木曽を治めた山村氏の菩提寺として知られています。永享6年(1434年)に木曽氏十二代信道が木曽義仲追善のために建立したといわれ境内には木曽義仲をはじめ木曽氏と山村氏の歴代の墓があり、義仲の霊をなぐさめるために信道が毎年お盆の松明祭りと風流踊りを行ったのが木曽踊りの始まりといわれています。室町時代の旧表山門が国宝に指定されていましたが惜しくも昭和2年の大火により失ってしまいました、現在は大火前のように復元された山門が訪れる人々を迎えます、また春になれば木曽義仲が植えたとされる枝垂れ桜も大変綺麗です。

興禅寺には二つの庭があり昔ながらの「万松庭」が方丈裏側に、そして表には昭和38年に現代造園家重森三玲氏によって作られた石庭「看雲庭」があります、この庭は枯山水の形式を取り禅宗寺院の庭を基本にしながら木曽の雲海の美をテーマにしたもので京都龍安寺の石庭と同じ手法を取りながらも現代的感覚を取り入れた庭として評価されています。

現代芸術家の作品をはじめ、木曽を治めた山村氏が所有した調度品・墨跡等の秘蔵の宝物を展示した宝物殿は規模も大きく見応えがあります。
<開館時間・冬期休み>
 午前8:30~午後4:30まで
<料金>
 大人500円・小中学生300円

旭将軍の名のとおり朝日の昇る勢いで京へ上った義仲を待っていたのは宮廷貴族の社会でした。義仲を育てた木曽の風土は偽りの多い政治の駆け引きを教えてはくれなかったのです。京へ上ってわずか5ヶ月、将軍となってたった13日で従兄弟にあたる義経の軍に追われ琵琶湖のほとりの栗津ヶ原で最後を迎えた。このお墓には義仲に最後まで寄り添った「巴御前」に託した遺髪が埋められていると伝えられています。

かつて木曽を治めた山村氏は、尾張藩の代官として木曽ヒノキを守り、天下の四大関所の一つ「福島関所」を270年間に渡り山村氏だけで守り通した幕府からも一目置かれた存在でした。関守としての権力も強く、お屋敷も豪壮を極めていたと伝えられています。隣接する福島小学校もかつては屋敷だったと言いますからその広大さがうかがえます。現在はその一部の「城陽亭」が残り築山池泉式の美しいお庭もあります。
<開館時間>
 4~11月 午前8:00~午後5:30まで
 12~3月 午前8:30~午後4:30まで
 ※12月~3月の毎週木曜日休館
 ※12/29~1/3休館
<料金>
 大人(高校生以上) 300円
 小人(小中学生)  150円

谷あいの町である福島は土地が少ないために昔の人々は知恵を絞り崖地を利用して2階建て3階建ての建物を作りました。町の通りから眺めれば1階建て2階建てに見えるのですが木曽川側へまわってみると特徴的な作りに気が付きます。

平成16年に完成しました木曽福島の新名所です。木曽川を眺めながらゆったりと過ごし偶然居合わせた隣の人との会話もまた楽しい旅の思い出となります。

■上の段

町内で宿場として栄えた頃の面影を残しているのはこの上の段だけです幕府により防塞施設としても作られ、敵の侵入を阻むために道を「鍵の手」に折り曲げ、急な坂道を作り、両垣に石垣を築き、いわゆる「枡形」をこの上の段に設けました。

上松宿

福島宿の手前、この上松は江戸時代初期より尾張藩の保護を受けた古くからの木曽ヒノキの集散地、その歴史は今もなお木材工業の町としてその名を馳せています。戦後の数回にわたる大火により古い町並みは上町にわずかに残るだけですが、木曽駒ケ岳を望むこの町には「赤沢自然休養林」「木曽の桟」「寝覚めの床」などの木曽路を代表する名勝を有し、人から人へ受け継がれ守られてきた自然美を四季折々楽しむことが出来ます。

おもしろばなし

■木材の集散地

森林鉄道の発着点として、また小川上流の赤沢で知られる上松では国有林を開放し、国民の森、自然休養林として利用し、「森林浴」という言葉を生み出し、「香りの風景百選」にも選ばれています。チェーンソー、集材機を使ったのも日本で上松が最初でした。

■浦島太郎の伝説

初めて寝覚めの床を訪れると「どうしてここに?」と思われるのがこの浦島太郎伝説が伝えられる臨川寺。龍宮城で月日さえも忘れて遊んでいた太郎はふと故郷に帰りたくなりました、すると龍王は太郎に弁才天の尊像と万宝神書、そして決して開いてはいけない玉手箱をいつでも龍宮城に戻ってこれるようにと渡しました。その神書には飛行の術や長寿の薬法などが書かれており、太郎は日本中、津々浦々と旅に出かけました。そしてたまたま立ち寄った寝覚めの床の風景の美しさに魅せられ、寝覚めの里に住み、毎日好きな釣りをして過ごしたそうです。ところがある日遂に玉手箱を開いてしまい、太郎は300歳の翁になってしまいました。その後、いつのまにか太郎の姿はなくなり、立ち去った跡には弁才天の像が一体残され、寝覚めの人々は祠を建てこの弁才天を祀ったそうです。

町内観光スポット

現在では当時の桟の姿を見ることは出来ませんが、国道19号の下には360年ほど前の石垣が残っています。往時の木曽路は山と木曽川の岩壁の狭間の険しい道のりでした、木曽の桟も代表的な難所と知られ歌にも歌われたほどです。今では対岸へは鉄筋の橋がかかっていますが、はるか昔は渡し船で渡り、現在見ることが出来る石垣は始めの頃は何も無く、長さ100メートルの崖に沿って掛けられた丸太作りの桟道であったため旅人にとっては心許ないものでした。正保4年(1647年)に通行人が松明を落とす事故があり、あっという間に焼け落ちてしまい、これに対して尾張藩は翌年の慶安元年(1648年)に875両もの大金をかけて長さ102メートル中央部に木橋をかけた石垣を作りました。時が経ち昭和41年の国道改修工事で石垣の部分は県の史跡に指定されそのまま残すことになり今もその姿を留めています。

大正12年に史跡名勝天然記念物に指定された県立公園です。木曽川の激しい流れが花崗岩の岩盤を長い年月にわたり侵食したその姿ははるか昔から旅人の心を捉え、中山道の名所として当時の歌や文献に数多く表現されています。大きな岩にはそれぞれの特徴をとられた「腰掛岩・屏風岩・硯岩・床岩・釜岩・獅子岩・まな板岩」の名前が付けられています。

寝覚の床から少し下ると裏寝覚と呼ばれる場所です。岩の表情はやや穏やかになり静かに流れる木曽川に季節の移ろいを写しこんでいます、木曽側のほとりの散策をお楽しみください。

天正10年に木曽義元の次男玉林によって創建されたといわれる玉林院は明治26年の12月に火災に遭い本堂と庫裡は失われましたが土蔵と明和3年(1766年)に再建された山門は火難を免れて今も当時の姿を保っています。本堂は昭和33年に再建されたものですが、山門や黒松の老木と整えられた庭に往時を偲ばせるものがあります。

木材で有名な上松は木曽では最も養蚕・製糸業の盛んな場所でもありました、この駒ケ岳神社は天文3年(1534年)に山頂の奥の院と麓の徳原に立てられた里宮が始まりといわれており、山岳の信仰としては御嶽崇拝も有名ですが、上松の駒ケ岳神社も農耕、馬の神、養蚕の神として信濃から尾張まで信仰を集めました。里宮で毎年5月の例祭に奉納される「太々神楽」は、古くから氏子より定められた農家の長男に伝える一子相伝、古より伝わる静動織り交ぜた舞、天狗の舞は見る者を惹きつけます。

須原宿

国道より一段高い丘にあるのが須原宿、車の通りが少ないため静かな佇まいを見ることが出来ます。道幅も広く、鉄砲町と言われた長い町並みと往時を偲ばせる家々、整備された用水、水場など、僅かに残っているだけですが、宿場当時は本陣、問屋、旅籠、茶屋が立ち並び、旅人で賑わった町です。正徳5年(1715)の木曽川の大洪水により大きな被害を受けて、現在の位置に移り、その後大火などにあいながらも現在に至っています。

町内観光スポット

■須原宿の「花漬」

八重桜の花を特別な製法により塩漬けしたのが須原名物「花漬」です。江戸時代の末から売り出されたもので、中山道の旅人から喜ばれ、心を和ませました。この花漬は明治の文豪「幸田露伴」が木曽路を旅して出会った花漬売りの少女を元に書いた「風流仏」により一躍有名になりました。またこの作品に感銘をうけた「正岡子規」も木曽路の旅に出かけました。

「名物なればと強いられて花漬二箱を買う、あまりに美しさに
明日の山路に肩の痛さの増すことを忘れたるもおぞまし  ― 子規 ―

臨済宗妙心寺派、木曽氏十一代「親豊」が先祖菩提のために開山しましたが文安5年に木曽川洪水によって流失し、その後文禄4年に再び洪水の被害をうけました。しかし山門・本堂・庫裡は建立時のまま残されており、桃山時代の豪壮なつくりと近世初期の禅宗寺院の規模を示す建造物として大変貴重なものであり国の重要文化財に指定されています。

大島の集落にひっそりと佇むのが京都清水寺と同じ懸崖作りのこじんまりとした「岩出観音堂」です。ここは馬頭観音であり、馬にまつわる逸話も多く、日義村の「岩華観音」と開田村「丸山観音」と共に三大馬頭観音として当時は多くの人が訪れました。また安藤広重・池田栄泉合作の「木曽街道六十九次・伊奈川橋遠景」の中にも薄墨で描かれています。

野尻宿

三留野宿から野尻宿まではかつて木曽路の最難所といわれた道、蛇抜け(今で言う鉄砲水)により多くの人が犠牲になったと伝えられておりそれを回避するために与川道という迂回路もありました。幾度かの大火により宿場としての名残はわずかですが「野尻宿の七曲り」といわれた細く曲がりくねった道は木曽路では奈良井に次いで長く、ゆっくりと歩けばところどころに当時の面影を感じることが出来ます。

町内観光スポット

野尻の東、小高い丘に静かに佇むのが臨済宗妙心寺派の妙覚寺です。享保年間に建てられた本堂・観音堂は今もその姿を留めています。庭にある天保3年に作られたと言われている石仏は野尻川向から昭和41年に今の場所に安置したもので一見すると千手観音のようですが、良くみれば左手に十字架のようなものを掲げていることから「マリア観音」と呼ばれていています。

三留野宿・南木曽町

往時は妻籠と同様、交通の要衝として栄えたこの宿場は、明治の大火により、往時の姿は僅かに残すのみですが、古くからの渓谷美と桃介橋、読書発電所など明治・大正の日本の近代化の遺産を遺しています。 また木曽谷で始めてお酒を造ったのも、この三留野の和合の集落で、「和合酒」と呼ばれ評判になりました。

町内観光スポット

南木曽から三留野宿へ向かう途中山側へ中山道を少し外れて行くと立派な山門を構えた等覚寺があります。円空仏は南木曽町に六体保存されていますがその内の三体「韋駄天像・天神像・弁財天十五童子像」がここにはあります、円空は生涯で十二万体の仏像を作ることを祈願して全国を行脚しましたが弁財天は享保3年(1686年)の8月12日に作られたことが記録として残っており、この頃円空が南木曽に留まり造像に励んだことがうかがえます。

国道19号線から柿其渓谷への道中に位置するこの存在感ある橋は、大正12年に建造された読書発電所に水を送るための水路橋です。現存する戦前の水路橋の中では最大規模のもので、国の近代化遺産に指定され重要文化財となっています。

南木曽町の木曽川に架かる大きな木造の橋が桃介橋(別名・桃之橋)です。南木曽町のシンボルとなっているこの橋は大正11年に架設、全長247mという現存する最大規模の木製補剛吊橋です。大同電力(株)の創業者である福沢桃介によって読書発電所の建設の際に資材搬入路として作られたこの橋は役目を終えたあとの昭和25年より村道として木曽川両岸の地域の人々に利用されてきました。しかし次第に老朽化も進み昭和53年から通行禁止、廃橋寸前となっていましたが地元の人々の保存の声と天白公園整備と合わせて復元されました。19世紀末のアメリカの吊り橋によく似ていると言われるこの橋を眺めるだけでなく、是非歩いて渡ってみることをおすすめします。

大正8年に建てられたこの別荘は「一河川一会社主義」を掲げて木曽川の電力開発に心血を注いだ福沢桃介が読書や大井の発電所の建設現場へ足を運ぶ木曽での拠点となりました。桃介と愛人「貞奴」は大井川発電所が完成するまで二人で度々滞在し、時には政財界の実力者や外国人を招き、華やかなパーティーを開きました。当時は渡り廊下で隣の2号社宅と繋がりまわりには2つの池もありました、時は経ちそれらは失われてしまいましたがレンガ作りにモルタル仕上げの建物は現在にもつうじる建築美を有しています。昭和35年の火事で2階部分は焼けてしまいましたが、平成9年に復元、貴重な大正時代の建築物として、そして桃介のロマンの足跡として、今も静かに木曽川のほとりに建っています。

福沢桃介記念館の隣にある歴史館は明治33年2月7日に御料局名古屋支庁妻籠出張所庁舎として妻籠宿本陣跡地に建てられたものです。昭和8年まで使用された後、個人に買い取られて移築され昭和61年まで住宅として使用されていましたが国道交差点改良工事のために立ち退きを余儀なくされたこの建物は町に寄贈され解体保管されていました。その後桃介橋と同じく天白公園整備事業の一環として現在の位置に再現されて木曽路の山の歴史を今に伝えています。

大正ロマンを偲ぶ桃介記念公園」の構想により、桃介記念館や桃介橋と共に整備されたのがミツバツツジ祭りで有名な天白公園です。ツツジの見頃は4月中旬、町の天然記念物に指定されたここには6種類のミツバツツジが群生しており、穏やかな春の日差しの中、紫色のツツジの花々に包まれた散策を楽しむことが出来ます。

■福沢桃介と川上貞奴

電力王と呼ばれ「一河川一会社主義」を掲げて木曽川の電力発電に情熱を注いだ福沢桃介は明治元年6月25日埼玉県に生まれました。慶応義塾に在塾中その才能を福沢諭吉に見出されて養子となりアメリカにも留学しました。名古屋を中心に実業界で名を馳せ、昭和40年代より電気事業に関係するようになり、自ら木曽川を調査し、電源開発の可能性を確信した彼は木曽電気製鉄を設立して、電力発電事業に着手します。大正8年の賤母発電所を皮切りに大桑、須原、桃山と立て続けに建設し、読書発電所の竣工の頃が絶頂期だと言えます、木曽はもちろん日本の近代化産業に大きな足跡を残して昭和13年2月15日に69歳で亡くなりました。
桃介が生を受けたその2年後の明治4年に貞奴は東京日本橋に生まれました。美貌と才能溢れる彼女は日本橋で芸姑として有名になりました、やがて俳優川上音二郎と結婚して共に欧米を巡業、日本で最初の女優と呼ばれましたが、夫の死後桃介の愛人となり良きパートナーとして桃介とその事業を助けました。三留野駅に貞奴が降り立つと沢山の人々が貞奴を一目見ようと集まってきたそうです。

妻籠宿・大妻籠

峠道も終わり大妻籠を過ぎていけば木曽路の代表的な宿場として知られる妻籠です。木曽路の中でもとりわけ往時の面影を色濃く残している妻籠宿が、宿場町として徳川家康から指定を受けたのは慶長六年(1601年)ですが、それ以前より中山道と飯田街道への重要な拠点として時を重ねてきました。往時は賑わいをみせたこの町も機関車や道路の発展という近代化の波に宿場町としての使命は奪われ町そのものが存亡の危機に立たされた時期がありました。大火により脇本陣から北は失っていましたが地元の人々はこの日本の伝統ある宿場を後世に伝えようと保存運動は「売らない・貸さない・壊さない」を合言葉に地道な活動を重ねていきます。この活動が認められ、長野県明治百年事業と併せて昭和43年ごろから修繕・復元が進められ、昭和51年には国の「重要伝統的建造物群保存地区」の第一号として選定されました。復元された町並みや妻籠や木曽路の歴史を伝える資料館など静かな佇まいの中に、江戸時代の息吹が凝縮された町並みはきっと古くて新しい発見で訪れる人を楽しませてくれます。

町内観光スポット

馬籠から妻籠へ続く峠道が終わると大妻籠の部落です。現在でも見事なうだつの家が残り、丘の上に続く道をあがれば県指定の有形文化財「藤原家住宅」があります。

峠から下ってくると道路脇にまるで古墳のようなこんもりとした小山を見ることが出来ます、上まで登っていくと庚申さまが祀ってあります。これは平安時代に日本にわたり、江戸期に盛んだった民間信仰が街道を通じて木曽へ伝わったもので当時の人々の生活との結びつきを今に伝えています。

大妻籠の民家が連なる道から少し外れて丘の上まで行くと県の重要文化財に指定されている古い民家を見学出来ます。部分的に新材や改造もみられますが間取り、構造、仕上げの様子から17世紀頃のものとみられ県内の民家の中でも最も古い部類に入ります。

■石柱道標

大妻籠を過ぎて橋場まで来ました、ここは中山道と飯田街道の分岐点になり「追分」とも呼ばれて栄えた場所です。車道から少しはずれた民家の前に3メートルほどの大きな石柱があり「中仙道」「飯田道」と大きな字が刻まれています、これは明治14年に飯田・江州・地元の商人によって建てられたもので道標としては稀に見る大きなものです。

いよいよ往時の面影残る妻籠の町並みです。馬籠方面から入って少し行けば町並み保存事業が最初に行われた寺下地区です。妻籠宿は下町・中町・上町と分けられており、その町並みには当時の旅籠そのままの静かな佇まい、出梁造りや堅繁格子の家々が並んでいます。中にはみごとなうだつ(卯建)を持つ民家もあります、このうだつは京都の町屋の建築の影響を受けたもので、防火壁の役割を果たしていました。しかしうだつを作るのは大変お金がかかり貧しい人々には作ることが出来ず「うだつが上がらない」という諺まで生み出しました。季節ごとに彩られる宿場を沢山の人が楽しまれています。

妻籠の町並みの一段高いところに城のように石垣を積み上げ白壁を巡らせた気品ある光徳寺があります。このお寺は天正11年(1583)に下伊那郡の開善寺の性天和尚が開基したものといわれており、明治初期に遂応和尚により考案された「車つき駕籠(人力車の祖形)」も保存されています。

元は三軒長屋だったものの一部を昭和43年に解体・復元したもので、妻籠宿の庶民の代表的な形式を留めていますが柱にヒノキを使っているところは民家としては珍しいことです。

平成7年、島崎家所蔵の絵図をもとに復元されたのがこの「妻籠宿本陣」です。木曽氏没落後に本陣を任命された島崎家は藤村の母の生家で、明治までその任を勤めました。本陣とされた邸宅は間口20m、奥行き32mの規模であったといわれ、後にも先にも妻籠にこれほど大きな屋敷はなかったようです。

この脇本陣奥谷は島崎氏と共に木曽氏の家臣であった林氏の邸宅です。脇本陣と問屋を勤め、家業として造り酒屋も営んでいました。建物は明治10年5月に建てられ、2003年に国の重要文化財に指定されたこの家は当時の林氏の財力を示すようにヒノキがふんだんに使われた堂々たる造りで見飽きることがないほど立派なものです、また裏手の土蔵には林氏所蔵の貴重な品々が展示されています。

本陣・脇本陣に隣接して建てられているのが「歴史資料館」です。ここでは木曽路と南木曽の歴史、過去から未来へと続く町並み保存運動などが、資料・模型・映像を通じて分かりやすく展示されています。

■高札場

復元された今でいう「官報掲示板」です。お上の権威を示すように高々と掲げられた高札(こうさつ)が人目を引きます。かつては役所からの禁制や法令などを庶民に知らしめるために各地に増え明治の初めまで用いられました。時には「隠れキリシタン捜索」のおふれも出されました。

19世紀初めのこの建物は当時は長屋として使われていました、その後左右の建物が取り壊され、残ったものが一軒の家として使われた建築学上珍しいもので昭和48年に町により解体復元されました。

ひときわ目を引くこの大きな岩が「鯉岩」。1805年に発刊された「木曽路名所絵図」には中山道三名石として天に向かって泳ぐ鯉が描かれていますが、明治24年の濃尾大地震によって頭の部分が落ちてしまい、現在の形となりました。

馬籠宿と馬籠峠

中津川から落合に入り、往時の石畳の残る十曲峠(落合宿)を越えればそこが木曽路の南端、坂道と石畳、そして島崎藤村ゆかりの地として知られる馬籠宿です。木曽路の入り口にあたる新茶屋を通り「是より北 木曽路」の碑を過ぎて当時の中山道を偲ばせる細い道を恵那山を眺めながら行けば鍵の手に始まる馬籠宿です。馬籠の名の由来は車も何も無い当時、山の中腹にあるこの地から麓の町へ行く手段は徒歩以外には馬か籠(かご)しかありませんでした、いつの日も生活を支えていたのはこの馬と籠であったことからやがて馬籠と呼ぶようになったそうです。宿場町としての当時の馬籠の農地は狭く生活は苦しかったと言われています。そのため宿場として旅籠を兼ねることは生活の一助となりました。
標高655メートル、独特の地形と吹き上げる風、水利に乏しいことから馬籠の歴史は大火の歴史ともいえます。明治28年(1860年)には69軒を焼失、島崎藤村の生家である本陣も隠居所と土蔵だけとなり、宿場町の面影は随分変わってしまいましたが、妻籠宿同様地元の人々の努力により、藤村記念館を筆頭に現在の姿を取り戻しました。

町内観光スポット

馬籠の入り口にあたる新茶屋のすぐ下には岐阜県の史跡に指定されている石畳が木立の合間を縫い、差し込む木漏れ日が苔むした往時の中山道を優しく照らしています、長い間木の葉と土に埋もれていたこの道は当時難所と言われた十曲峠のぬかるんだ道を整備するために大きく砕いた石を不規則に敷き詰めたもので、人々の苦労の末に作られた道です。

藤村と芭蕉の碑を後にして少し行くと美濃路を見下ろすように空の開けた場所があります。ここには正岡子規の「桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな」の句碑がたっています、遠く美濃路を眺めながら一休み・・・晴れた日には笠置山に沈む夕日がとても綺麗で長野県のサンセットポイント100選に選ばれています。

■島崎正樹の記念碑

荒町に入ると諏訪神社がありその入り口には小説「夜明け前」に青山半蔵として登場する藤村の父親・島崎正樹の記念碑があり、島崎家の先祖や正樹の経歴、人柄などが刻まれています。

先祖は信州伊那高遠藩の藩士である清水屋(原家)は、享保19年(1734年)に馬籠に移り島崎家との親交を深めつつ、代々組頭、宿役人、郡会議員などを勤め、村長を勤めた8代目の原一平は藤村の「嵐」に「森さん」として登場します。くぐり戸を抜け、煤で黒くなった歴史感じる囲炉裏のある部屋を眺め2階に上がると藤村の書簡や掛け軸をはじめ、漆器や陶磁器などの美術品、馬籠の人々の民族史を伺い知る遺品が展示されています。

みやげ屋が軒を連ねる一角にあるのが槌馬屋資料館です。ここは馬籠宿の隣、湯船沢村の庄屋を勤めた家で島崎家とも縁があり「夜明け前」の背景を知る豊富な資料や、この地の民族資料が展示されています。また藤村の初恋の人と言われる「おゆふ様」や「島崎正樹」の写真も見ることが出来ます。

宿場の町並みから少し道をはずれて行くと島崎家の菩提寺としてその名を知られている永昌寺が杉の木立から人々の生活を見守るかのように佇んでいます。永禄元年(1558年)に木曽福島の長福寺住職七世沢堂智仁勧請開山として建立されたと寺伝にあり、当時から島崎家の祖先との関係が深く、十世桃林智仙は「夜明け前」の「松雲」のモデルとなり「万福寺」としても登場します。観音堂には平安末期作、檜の一本造り「木彫阿弥陀如来坐像」。円空作の聖観音像もあり、季節によって彩られる裏庭はとても綺麗です。

藤村記念館は記念堂・記念文庫・案内所・隠居所の総称です、この場所は島崎藤村の生家であり、馬籠宿の本陣として宿場の中心地となっていました。しかし明治28年の大火により焼失、隠居所を残すのみとなってしまいました。隠居所は藤村の祖母の家であり、幼い藤村は時々泊まりに来たりして勉学の場として過ごしました。

藤村没後、昭和22年2月17日の藤村の誕生日に、馬籠の青年壮年120人余りの人々が作家菊池重三郎を中心に「藤村記念事業ふるさと友の会」を結成。同年11月15日に落成式を迎えたのが記念堂です。太平洋戦争終局後、馬籠に疎開して隠居所に住んでいた作家菊地重三郎は日に日に地元の人々と親交を深め、文豪島崎藤村を後世に伝えるために何かしようではないかとう若者達の情熱を肌に感じるようになりました。

ふるさと友の会結成後、村人達の説得を繰り返し、村をあげた一大事業が始まりました。設計をした東京工大の谷口博士は本陣のかつての豪壮さを伺わせる冠木門をつくり、本陣の焼け跡はそのまま残し、記念堂は真っ白な壁が印象的な簡素な造りですが、良く見れば随所に藤村と馬籠を思う気持ちが込められたものとなっています。

特筆すべきはこの記念堂がすべて馬籠の人々の手作りで、木材をはじめ、花崗岩は谷川から、壁土は近くの畑から、障子の紙は木曽の手漉きであり、表門の金具さえも手作りで、すべてがこの土地のものであるということです。昼の野の仕事が終わると本陣跡に集まり、時には提燈を灯しながら木材を運び、夜遅くまで工事は続けられ、幼い娘や子供たちまでが谷川から汗を流しながら石材を運びました。落成式を迎えた当日は秋晴れのもと、塗られたばかりの白壁が眩しく輝いていました。この日を迎えた人々の喜びようは想像に難くありません。まさに郷土愛と詩魂に捧げられた建築物と言えます。

その後、財団法人藤村記念郷が発足、現在に至り、藤村に関する多くの資料が展示され馬籠宿を代表する場所となっており、この記念館を通して文豪島崎藤村と「夜明け前」の世界をより身近に感じることが出来ます。

脇本陣資料館は昭和39年に開館されたもので、「夜明け前」に登場する枡田屋こと、脇本陣蜂谷家でした。建物は本陣同様明治28年の大火で消失してしまいましたが、古文書などの宿場の歴史資料として貴重なものは火難を逃れました。大火以前の記録に基づいて再現された上段の間、往時を偲ばせる脇本陣の見取り図、約百年間の馬籠の出来事が蜂谷家四代に渡って書き継がれた覚書(日記)は藤村が「夜明け前」の執筆にあたり重要な資料となりました。また建物の裏には幾度の大火も乗り越えた「玄武石垣」が今もなおその姿を留めています。宝暦3年(1753年)の改築の際に組み上げられた石垣はひとつひとつが六角形に見事に削られており、機械もない当時は「米俵一つ石一つ」と言われ、大変手のかかったものであることが分かります。

■高札場

長い坂道の町並みを登っていくと馬籠宿の東の入り口である「陣場」になります、ここはかつて徳川方が城を攻める際に陣を敷いた場所でした。そのすぐ上に復元された高札場があります。

馬籠と妻籠の間は約8キロ、馬籠峠から妻籠へは約5.5キロ。中山道の往時の趣を色濃く残しており外国人のハイカーも見かけるほどの木曽路の人気ハイキングスポット、宿場から峠の集落を過ぎてしばらく歩けば標高790mの峠の頂上へ、茶屋の隣には「白雲や 青葉若葉の 三十里」と詠われた正岡子規の句碑が木曽谷を見下ろしています。
峠を少し下れば、一石栃の番所です。もとは妻籠の下り谷にあったものがこの地に移り、その後藩制廃止までの合わせて約200年間、白木改めの番所として存在しました。当時の建物は残っていませんが整備されたかつての場所は、その規模を想像することが出来ます。
近くには立場茶屋や町指定の天然記念物である枝垂れ桜と安産の神として信仰を集めている子安観音を祀る観音堂も見ることが出来ます。さらに歩を進めれば男滝・女滝です。

男滝・女滝から少し下った道路沿いに林の中へ通じる細い道が続いています。車で3分ほど進むと木立の中に少し開けた砂防公園を見つけることが出来ます。このあたりは昔から土砂崩れが多く麓の人々は自然の力にただ手をこまねいているだけでした、しかし明治に入り外国の技術援助を受けながらの日本各地の近代的な治山、治水の土木工事が始められ明治11年(1878年)にはオランダ人技師のデ・レーケが視察した際にこの地の荒れ様に驚き早速政府に工事の必要性を進言しました。この公園にある大きな石積みによってできたえん堤は昭和57年(1982年)に100年の時を経て2メートルの土の中から原形を留めたまま発見され長野県では一番古いものです。

小野の滝(上松町)

上松町国道19号のすぐ傍らに木曽八景のひとつ小野の瀑布があります。高さ30メートル、幅10メートルのその姿は広重や北斎の版画にも描かれました。周囲の景観は時代と共に随分変わりましたが、滝の流れは今も変わらず、木曽路と共にその歴史を刻んできました。

男滝・女滝(妻籠宿)

妻籠宿から馬籠宿へ向かう峠道(中山道)の途中にあるのが、吉川栄治の小説「宮本武蔵」にも出てくる男滝・女滝です。当時大木が生い茂っていた周辺は明るくひらかれ、江戸中期頃までの度重なる洪水や鉄砲水によりかつての雄大な姿は変化しましたが清流と滝の音が周囲を濡らしハイキングを楽しむ旅人に束の間の涼を与えてくれます。